15年目の三陸沿岸

3月の初め、陸前高田、南三陸、女川、石巻、そして福島第一原発周辺で今も帰還困難区域となっている双葉町や大熊町、浪江町などの国道6号線沿いを取材した。福島以外は、震災発生直後から何度も訪れている場所だ。

15年目の三陸沿岸は、日本がこれから直面する人口減少社会の縮図でもあった。
思い切った言葉を使えば、15年目の三陸沿岸は「復興バブル」の終焉を迎えていた。まとまった人の姿を見るのは、地元の生活を支えるスーパーやチェーンレストランくらいだ。観光客や震災学習の団体を呼び込むために整備された施設はガラガラで、新たなプロジェクトが大きく動く気配もない。それが15年目の姿だった。

復興予算の区切り(福島を除く)とされていた10年目の2021年まで、東北の太平洋沿岸ではあらゆる場所で復旧工事や新設工事が行われ、人の出入りも多く、被災地を立て直すという気配に満ちていた。住民が「11年目からは逆に苦しいことになる」と口にしていたほど、10年目は総仕上げのような状況だった。

そこから5年。復興予算は一部継続しているものの規模は大幅に縮小し、外から来る人は目に見えて減った。何より、高台移転や集団移転によって町の機能そのものが分散した。それまで海とともにあった生活は、祈念施設や公園となった復興エリア、高台の住宅地、スーパーや病院のある商業エリア、港湾エリアといった具合に、はっきりと分かれてしまった。

石巻や気仙沼のように、もともと人口が多く、駅や大型商業施設、中心となる住宅地が震災で大きな被害を受けなかった街と比べると、沿岸の小さな町では平日も週末も住民が復興エリアを積極的に訪れることはほとんどない。さらに10年目以降は、学習や視察、取材で復興エリアを訪れる人もめっきり少なくなった。

復興支援を目的に訪れていた観光客の足も、次第に遠のいている。リピーターになるほどの観光資源、例えば快適な温泉や変化に富んだ美食、その土地でしかできない特別な体験が少ないことも背景にある。実際、私が家族旅行で訪れた際にも、地元の方から「こんな何もないところにどうして?」と不思議そうに聞かれた。

東北沿岸部の各地が、新たな取り組みに挑戦しているのは確かだ。帰還困難区域のすぐ近く、除染が終わった地域ではワイナリーやカフェが開業し、住宅が建てられなくなった場所にはフルーツ農園やキャンプ場、スポーツ施設が整備されている。大きな覚悟のもと移住や新規事業に挑戦した人たちには尊敬の念しかなく、それを否定するつもりはまったくない。誰かの一歩が、次の一歩につながることは間違いない。

ただ、それらが地域の呼び水となって広がっていく気配はなかなか見えず、途中で終わってしまうものもある。点在する取り組みだけではリピーターを生み出すのは難しい。そして挑戦する人も減っていく。

そんな中、今回、南三陸町の神社で生まれ育った禰宜の女性がこう話してくれた。

「頑張って外の人を呼び込もうとしても、それは南三陸がもともとやってきたことではない。南三陸が違うものになってしまう。植物の根は横に広げるより、縦に深く伸ばす方が強い。地元の人が深く根を張れば、南三陸はまた強くなると思うんです」

私はこの言葉に、はっとした。外から人やお金が流入することこそが地域復興の最善策だと、どこかで思い込んでいたからだ。

前述したような「リピーターが多く訪れ、新規事業に挑戦する人が次々に現れる町」は、そもそも現実的ではないのかもしれない。震災で町がリストラクチャーされ、街並みが新しくなっても、その土地の本質までは変わらない。復興の完成形とも言われ、おしゃれな店舗群で一時は観光客で賑わった女川のシーパルピアが、今では望まぬ静けさを取り戻しているように。

被災地に限らず、人口が減り続ける日本の多くの自治体で、いま誘致や集客、IターンやUターンの推進が行われている。しかし本当に見つめるべきなのは、いま住んでいる人たちの満足度ではないだろうか。新しいものを手に入れることだけが地域の価値ではない。
今回の取材を通じて、私はそう感じた。
もう一歩踏み込んで言えば、思い切って諦めるべきものもあるのかもしれない。それを見極め、前例や目の前の予算に流されず町づくりをしていく。災害が相次ぎ、人口も減り続ける日本で、いまそのことが強く問われている気がしてならない。

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